2008/04/24

言論の自由と表現の自由

久しぶりに、児童ポルノ法とは関係の無い話をしようと思ったが、結局関係してしまうのが物悲しいと言うかなんというか…。

しかし、これから書く記事は、『児童ポルノ法改正案』の問題だけではなく、『青少年の健全な育成のためのインターネットの利用による青少年有害情報の閲覧の防止等に関する法律案』また、『メディア規制法案(廃案になったが)』など、日本国憲法によって守られるべき『言論・表現の自由』と密接に絡んだ内容である事は間違いが無いと言える。

また、これから書く記事の引用部分に関しては、特別な注釈が無い限り、『立花隆』氏の『言論の自由VS○○○』(文芸春秋社)よりの引用であることを付け加えておく。

図書館に置いてあると思うし、アマゾンでも購入ができるので、興味のある人は読んでみるといいだろう。


最初に『言論の自由VS○○○』の内容について、さわり程度に述べたいと思う。

本の内容は、田中真紀子元衆議院議員の長女の○○問題と、その内容を記事とした文芸春秋社、そして発売仮差し止めの判断を下した『裁判所』の話である。

(ここでも○○問題と書いたのは、裁判所に対する私からの皮肉であり、著者である立花隆氏も同様の表記をしている為、踏襲させていただいた)


もう一度言わしてもらうが、この本は読んだ方がいい。

むしろ、全国民が読むべきである。

この本には、『言論・表現の自由』と『個人のプライバシー』に関する事が書かれていて、私はこの本を読んでいて、『表現規制を推進しようとする政府与党の目論見』が煤けて見えるような気がしたからだ。


まず、『名誉権と表現の自由についての最高裁判例』を見ていただきたい。

昭和56年(オ)609号(北方ジャーナル事件)

この事案で注目すべきところは、判決の内容ではなく、裁判官の出した意見である。

著者である立花隆氏は、裁判官の意見をこう集約している。

『公共的事案に関する表現の自由の事前の規制は、表現の自由を保障し検閲を禁止する憲法21条の趣旨に照らし、厳格かつ明確な要件の下においてのみ許されるものと解するべきである』



『精神的自由の優位(表現の自由の優位)が広く認められている状況にあっても、個々の具体的案件での判断は、判断者の恣意に流れる恐れがあり、判断者の恣意で決まるという事になると、表現の自由に対する萎縮効果が大きくでてしまう恐れがある。また、判断基準が明確であると言い難い場合、結果予測が難しく、その結果として表現者に必要以上の自己規制を強いる結果ともなりかねない。そういった状況は、下手をすると保証された表現の自由も、自己検閲の幣に陥り、言論は凍結する危険がある。』



 2番目の引用文は、実際に戦前に陥った自己検閲に再び陥ってしまう事を危惧しての、裁判官の意見であろう。

実は戦前も、『どういった内容だと発禁処分になるか』の基準が不明瞭で、発行者が行政機関に出版現行の事前検閲を行っていたらしいのだ。
(法的には検閲制度は無く、インフォーマルな制度として機能してしまっていた)


実は、このインフォーマルな検閲制度は、現代でも構築可能な制度なのが大問題なのである。

何故なら、『憲法21条で規定されているのは『法的に整った制度としての検閲』であり、様々な法的権限(行政権・司法権)による実質的な検閲制度は、制度検閲にはあたらず、憲法21条には違反しない』という最高裁判例があるからだ。(第609号 昭和61年6月11日大法廷判決)



ただし、1984年『税関検査事件(昭和57年(ツ)第156号)』において、表現の自由の事前規制については以下のように明確に定義すべきであるとしている。

『表現の自由の事前規制については、事前であるが故に、特に明確性が要求され、明確性の基準として以下のものを求める』

 ・その表現により、規制の対象となるものと、そうでないものが明確に区別され、かつ合憲的に規制し得る物のみが、規制の対象として明らかにされる事

 ・一般国民の理解において、具体的場合に当該表現物が規制の対象となるかどうかの判断を可能ならしめる事




つまり、国家がいつでも恣意的に特定言論機関を潰す事が可能である為、
『国民の誰もがこれはOK、これはNGであるとはっきりと理解できて、自分でも応用できる明確な基準を作りなさい』

という判例である。



長々と判例に関する記述を書いてきたが、『明確な基準を明示しないまま規制する事』は、裁判をされたら国は『勝てない』と言っているのと同じなのである。


児童ポルノ法改正案』でも、『青少年健全育成条例の有害図書指定』でも、『青少年の健全な育成のためのインターネットの利用による青少年有害情報の閲覧の防止等に関する法律案』でも、明確な基準は示されていない。

これらの法案は、「限りなく違憲に近いまま』運用されようとしているのである。
(しかも、立法組織である国会が、司法の判断を無視して行おうとしているのである。知らないで行っているのなら、職務怠慢か無知であり、知っててやっているのなら立派な犯罪行為である)


また欧米ではこういった言論・表現の自由について語るときに、何をおいてもまず読むべき本として、J・ミルトン著の『アレオパジティカ』が挙げられている。

彼は自分の著作であるアレオパジティカの中で、こう力説している。

検閲からはよきものは何も生まれない



(『よきもの』は、わざと『ひらがな』にしてある。これは恐らく、『善き者』『良き物』とかけられているからであろう)

彼が何故こういったことを力説しているのか、彼の考えを引用して締めくくりたいと思うが、この二つの文章を読んだだけで、いかに我々日本人が、『言論・表現の自由』について無知であるのか、考えさせられる一文であった。

有害図書指定と戦っている方、様々な言論と表現の自由と戦っている方は、以下の文章を参考にすべきである。


 我々は正常な心を持ってこの世に生まれるのではなく、不浄の心をもって生まれてくる。
我々を浄化するのは試練である。試練は、反対物の存在によってなされる。
悪徳の試練を受けない美徳は空虚である。
 美徳を確保する為には、悪徳を知り、かつそれを試してみる事が必要である。
罪と虚偽の世界を最も安全に偵察する方法は、あらゆる種類の書物を読み、あらゆる種類の弁論を聞く事だ。その為には、良書・悪書を問わず、あらゆる書物を読まなければならない。




 神が人に理性を与えた時、選択の自由も与えた。
神は彼を自由なままに置き、いつもその目に入るように誘惑物を眼前に置いた。
その自由な状態にこそ、彼の真価が存する。
 もし彼の行動がすべて許可され、規定され、強制された物だったら、どこに彼の美徳の価値があるか?どこに彼の善行の価値があるか?
 悪の知識なくして、どこに選択の知恵があるか?



Jミルトン著 『アレオパジティカ』  立花隆 著  言論の自由VS○○○ より抜粋
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